玉那覇有公氏は、1936年に沖縄県石垣島で生まれました。学校を卒業後、石垣島の鉄工所で働いた後、那覇に出て鉄鋼関連の仕事を探しました。そこで、運命的な出会いがありました。紅型城間家14代の城間栄喜氏の一人娘である道子さんと出会ったのです。 道子さんは紅型復興に命をかけて取り組んだ栄喜氏の娘で、幼少期から父の指導を受け、紅型の基礎を学びました。結婚を機に、玉那覇氏は紅型の世界に飛び込むことになりました。 義父の栄喜氏は1942年に50枚の型紙を持って大阪に向かいましたが、沖縄戦が勃発し、妻子と離れ離れになりました。戦後、沖縄に戻った栄喜氏は、道子さんと共に50枚の型紙を元に紅型の復興を試みました。彼は紅型に対して妥協を許さない厳格な人物でした。 当初、玉那覇氏は紅型の世界に飛び込んできた未経験の若者でした。義父の工房では型紙を彫る技術者が不足していたため、玉那覇氏は昼間は工房の雑用をこなし、夜は型彫りの勉強に明け暮れました。やがて、義父から型紙彫りの許可を得て、紅型の制作に参加し始めました。 玉那覇氏は図案から型紙彫りを極め、すべての工程に精通し、義父から独立して自身の工房を構え、紅型作家として認められました。彼は公募展で実績を積み重ね、1996年には重要無形文化財「紅型」の保持者(人間国宝)に認定されました。 紅型は15世紀頃に琉球王朝のもとで生まれ、王族に愛用されました。戦後、城間栄喜氏によって紅型は復興されました。紅型作家たちは独自の意匠を用いて図案を作り、日本本土の植物をモチーフにした文様が多く見られます。紅型の命は型紙の精緻さにあると言われ、玉那覇有公氏はその技術を際立たせました。 彼の作品は花や葉の模様を丹念に手挿しで染め、濃淡の使い分けや暈しによって表情を変えています。半世紀以上にわたり磨き上げた紅型の技法は、今も高い評価を受けています。
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